政治家 品川弥二郎(号は春狂) 書掛軸 松下村塾 山口
商品說明
傷みあり、紐を止める金具取れてます。飾れない状態です。
軸先含めない全体的な大きさは184cm×71cm程度です。
品川弥二郎(シナガワ・ヤジロウ)
天保14年(1843)~明治33年(1900)
諱:日孜(にっし)、字:思父(しほ)、通称:弥二郎、号:扇洲(せんしゅう)・念仏庵主(ねんぶつあんしゅ)・春狂・五明州(ごめいしゅう)、別名:橋本八郎
天保14(1843)年、大組仲間の品川弥市右衛門の子として生まれる。安政4(1857)年に15歳で松下村塾入塾。高杉・久坂らの英国大使館焼き打ちに加わるなど尊王攘夷運動に奔走。禁門の変では八幡隊隊長、四境戦争では御楯隊隊長として戦ったほか、薩長同盟にも尽力。戊辰戦争では奥羽鎮撫使(おううちんぶし)総督参謀を務めた。
明治2(1869)年に新政府に出仕、翌年普仏戦争視察のため渡欧。英独両国に留学し、ベルリン公使館勤務など外交方面で活躍。帰国後、明治9(1876)年に内務大丞(だいじょう)、のち農商務大輔(たいふ)、駐独公使、枢密顧問官などを歴任。明治17(1884)年に子爵となる。
明治24(1891)年に松方正義内閣内務大臣となり、信用組合法案を議会に提出するが不成立に終わる。のちに平田東助との共著で『信用組合提要』を発表、各地での信用組合設立を奨励するなど、産業組合運動の先覚者として知られる。
明治25(1892)年の第2回総選挙では、大規模な選挙干渉が問題となり辞任。その後国民協会を設立し、副会頭となる。晩年は京都に「尊攘堂」を設け、松陰ら維新志士の霊を祀り、維新殉難者の遺墨収集などに努めた。明治33(1900)年、58歳没
此參考翻譯(中文)功能是由Google翻譯所提供,本網站不保證翻譯內容之正確性